優しさと甘さ
私はよく「ま、いっか」と思う。
だからこそくよくよ悩まず、嫌なことも流すことが出来、気楽に生きてこれたと思う。
そうしないと身が持たない。そう学習しそれが癖になったのだろう。
すべてをまともに受け止めていては壊れてしまう。そう思っていた。
最初からそうだった訳ではなく、出ようとすれば打たれる。その繰り返しから諦めること鈍感になること流すことを覚えた。
これは私の長所でもあり短所でもある。
大概のことは許せてしまう。人に裏切られても、もちろん悔しいけれどそれはそれで仕方がないことなんだと呑み込んで消化する。
だから別に誰かを恨むとかもない。
絶縁している父親にしても恨みつらみで縁を切った訳ではなく、トラブルメーカーで関わるとろくなことがないから、子供への影響を恐れ、関わらない選択をしたまでだ。
離婚協議中の夫に対しても情けなさはあるけれど、嫌いでしかたがないとか恨みではない。
ほんと、父に似ていて関わらないのが良いという選択だ。
いい人ぶるつもりはないけど、怒るとか怨むとか負の感情を持ち続ける苦しさも多少は知っているから、今はそういったことは流せるようになった。という事だ。
私は優しい。時に優しすぎると言われる。
それは甘いってことなんだろう。
人に対しても自分に対しても。
負のエネルギーもその悔しさをマイナスからプラスに変えられればより強いパワーになるだろうに、私は転化ではなく鎮火をしているだけだった。マイナスからゼロにするのは上手になったけど、プラスには出来ていない気がする。
これ以上傷つきたくない。だから心をガードし守ることは得意だけど、傷を追ってでも何かを得るために攻めることは苦手だ。
前にも書いたことあるけど、そんなつもりもなく最初の頃に書いたこの投稿が自分をよく表していて、何度か読んでは苦笑しているw
見切りの悪さ、何にでも情けをかけてしまう甘さ。などなど。
何かのために何かを捨てる。その決断力が弱いのかもしれない。
たまたま読んだ本に心は庭のようなもので
よりよい人生にしようと思ったら耕し、雑草を刈り、より良い種を巻き悪いものを排除しなければならないと書いてあった。
笑ってしまう。私がそれが出来てないから。
なんでも受け入れすぎて排除するのが下手で全然心の庭が整えられていないなと。
遅いかもしれないけど遅すぎるとは思わない。
長年の考えが簡単に変えられるとは思わないけど、心の庭を整え居心地の良い場所を自ら作りたいと思う。
甘すぎる自分をここに葬ります。