葬ろう部

いろんなことを書き記し葬っていくブログ

雑草と魚と私

これはこぼりたつやさんの企画

3000文字チャレンジのテーマ「雑草」参加記事です。

 

以前住んでいた祖母の家は、縁側に懐かしさを感じる古民家だった。

広い庭には球根植物や木蓮ツツジ・紫陽花・ハナミズキサザンカ等が咲き、

春にはつくしが出て、秋には柿の実をとり、冬にはみかんをもいで食べる。

何も手をかけなくても四季を楽しめる庭で、よく花木の写真を撮り楽しんでいた。

 

広いだけに雑草は半端なく生える。ちょっと気を抜くとボーボーだ。

私はそんなボーボーの雑草だらけになった状態の庭を

大好きな漫画「陰陽師」に出てくる”安倍晴明の庭”と心の中で呼んでいた。

 

漫画に出てくる晴明の庭は「まるで荒れ寺」と言われるほどに草が生い茂っていて

その生命力溢れた庭の草や虫を自分の式神として使うのだ。

だから雑草ボーボーの状態も嫌いではなかったけれど、

そこはやっぱり世間体もあるし、虫も出るしで野放しにはしておけない。

 

時々重い腰をあげて草刈りをするのだけれど、

誰かが庭に巻いたミントが交雑しながら増殖していたため、

草を刈るたびにミントの香りが漂うアロマな空間となった。

※ミントは庭のテロリストと言われるほどに増殖するので地植えは危険です。

 

そして疲れてくると晴明みたいに式神飛ばせたら草刈してもらうのになぁ、

でも生命力の源を絶っているのだから式神作れないか。などと

おバカなことを考え、なかなか終わらない嫌な作業の現実逃避をした。

 

また、子供が小さいころに敷地にある雑草だらけの畑をなんとかしようと頑張って

雑草を刈り取り、やっかいなスギナの地下茎をとったり

土をふるいにかけ耕し、腐葉土や肥料を混ぜ込んでふかふかにし畝を作った。

 

そこに雑草予防のビニールシートをかけ、トマト・ナス・きゅうりに

オクラ、枝豆、こどもピーマン(苦みが少ない)などの野菜を植え育て、

食育だー!なんて言いつつ子供と一緒に野菜を摘み料理をして楽しんだ。

子供も自分で収穫したからか喜んで野菜を食べてくれたものだ。

 

必要とあればいつでも野菜を取りに行ける家庭菜園はとても助かったけれど、

私が仕事を始めてから、日中畑をあまりいじることが出来なくなったため

一雨ごとにぐんぐん伸びる雑草に、やがて畑は呑み込まれてしまった。

 

雑草はこまめに刈るべき。それはわかっている。

野放しにしていると成長し、根を張り厄介なことになる。

 

なのに私はもうすぐ花が咲きそうな雑草があると

「せっかくもうすぐ花が咲くのだから・・・」と

刈ることをためらい、結果、大きく育ち根がついて

後で苦労するという馬鹿なことをしていたものだ。

 

花が咲けばいずれ種が飛びまた雑草が増える。

それなのに雑草に可哀そうなどと同情をしてしまっていた。

この辺の甘さは人生のいろんな場面においてもそうなのだ。

いつも思い切りの悪さゆえに面倒なことになるのだから(苦笑)

 

雑草として刈られるものの中には食べられるものもあり、

うちの庭によもぎが生えていて、これは天ぷらやよもぎ餅に使える。

私も一度庭からよもぎを収穫して天ぷらにしたことがある。

これが春菊のようなほろ苦さがあり美味しいのだ。同じキク科の植物だけにね。

 

自分の家の庭だから河原の土手や道端と違って、

農薬も犬のおしっこもかかってない安心感がある。

ノラ猫がたまに出入りしていたから猫のおしっこは可能性はあるかもしれないけれど。

まあきちんと洗ったから大丈夫だろう。

 

春の庭に生えるつくしも子供が「つくし食べてみたい!」と言うから

一緒に摘んでハカマをとって、胞子で手を緑に染めながら

頑張って佃煮と卵とじにしたけど、子供に「まず~い!」と

言われてたため、その面倒な作業を二度とすることはなかった。

 

けれどたまたま春に訪れた知り合いのおばちゃんが「つくしがある!!」と

興奮していたので「どうぞ採っててください。いつでも取りに来てください」

と伝えお裾分け?をしたので、我が家にとっては雑草となったつくしが

おばちゃんにとっては春を感じる食べ物として楽しんでもらえることになった。

 

前に一度、子供と一緒に野草を食べる会なるものにも参加したこともある。

公園内を歩きながら、これは食べられる食べられないなんて教えてもらい

いろんな野草を摘んで、参加者たちと一緒に仕分け・処理をして

たんぽぽやカラスノエンドウのおひたし、ノビル、

公園内の山で採れたタケノコのご飯のおにぎりを食した。

野草は決して美味しいとは言えないけれど食べられなくはない。

もしサバイバルな状況になった時には役立つ経験を得た。

 

けれどそういった食べることの出来る草も小さな花を咲かせる野草も

邪魔・いらないと判断されれば雑草として処理される。

雑草かそうでないかは人による選別なのだ。

 

過去にちょっとした知り合いの絡みで

グッピーのブリーディングに関わったことがある。

この時に何冊かの本を読んだのだが、必ず出てくるのが

「選別と淘汰」という言葉だ。

 

よりよいものを選び掛け合わせ、また選び掛け合わせ

そういった何世代もの交配を得て素晴らしいものが産まれる。

選別による選別を重ねた末の選ばれた美しい固体を作り上げるのだ。

そうやって品種は守られ、改良されていく。

 

専門家ではないので、ざっくりとした説明となってしまったが

大変奥の深い世界なのである。

 

小さな水槽に泳ぐ稚魚をまずはオスとメスに分け、

そこから成長を見ながら綺麗に育ちそうなものを分けて

また少し成長したら分けてと選別をしていくのだけれど、

この作業をしながらふと「この水槽が宇宙なら私は神だな」

「神様も人間をこうやって選別と淘汰してるのかな?」

などど、やや中二病的なことを考えてしまっていた。

 

そしてここでも雑草に対してのように私は甘くて

淘汰される側の気持ちになってしまった。

せっかく生きているのに。産まれたのに。

望まれない命なんて可哀想。

 

これには昔、母から言われたことが関係していたように思う。

 

「お前はもしかしたらこの世に産まれてなかったかもしれないよ」

 

母からこのことを言われたのは小学校4年生くらいの時だろうか。

姉と私は年子で、姉を生んで間もなく私を妊娠した母は

体調が悪く辛かったそうだ。それで私を諦めるかどうするか悩んだ上で

父とも相談し産むことに決めたから私が存在するのだと。

 

なんで母はこんな話を私にしたのかはよくわからない。

過程はどうあれ産まれてきてこうして生きているのだから感謝もしている。

でもこの言葉により心のどこかで私は望まれた子ではなかったのか?

「淘汰されるかもしれなかった命」

という歪んだ劣等感を抱き、淘汰されるものに自分を重ねていたのかもしれない。

今の私ならこの時の親の苦悩も少しはわかるのだけれどね。

 

世の中「可哀想」だけではどうにもならないことは知っている。

次から次へと産まれる稚魚は、自然淘汰のない水槽の中ではすぐ飽和状態となり

美醜の、そして優劣のふるいにかけられ

選ばれなかったものは雑魚として扱われるのだ。

可哀想だからなんて考えは、現実をただ認めたくない子供の綺麗事でしかない。

 

頭ではわかっていても命あるものに対してドライにはなれず、

命を物として扱うこの世界は私にはむいていないと悟り、関わることをやめた。

 

全ての雑草を愛でることは出来ないし、

全ての魚を救うことも出来ないし、

ましてや全ての命を救いたいなんておこがましいけれど、

ほんの少しでもそこにも命があることを気にかけたいと思うのは、

私自身が咲いていることを気にかけてほしかった雑草であり、

選ばれたかった魚だったからなのかもしれない。

 

決して特別ではなかった自分を悲観しているわけではない。

私は今の踏まれて強く育った「ザ・雑草」の自分が割と好きなのだ。

 

たんぽぽの綿毛のようにふわふわ飛びながら根を張る場所を見つけ

 晴明の庭のように雑草だらけの生命力溢れるこの世界で

「淘汰されなかった命」として今ここに生きているのだから。

 

 

 

3000文字無理!と思っていた自分をここに葬ります。

 

 

 

<あとがき>

初チャレンジ3000文字難しい!まとまりきれなかった無理矢理感´д` ;

もっとポップに書くつもりがなんかすいません。