葬ろう部

いろんなことを書き記し葬っていくブログ

過ぎない。と言うこと。

ここにいろいろ書いているけど、普段はそんな小難しく考えて生きているわけではない。

昨夜のスペースで誰かが言っていた「反射的に生きている」まさにそれだ。

それをふとした時に自分は無意識にどんな反射をしているのか。なぜそう思うのか。

そんなことを深掘りしてみて文字にしている。

例えばこんな眠れない夜に。つらつらと。

 

人と話すことは楽しい。人は好きだ。

嫌いな人はそんなにいない。

いろんな話を聞いてみたい。

そんな感じなので割と社交的だとは思う。

知らない人とでもすぐに打ち解ける方だ。

人と話すことにより見えてくることがあり、知らない自分を知る。

誰かを知ろうとすることは自分を知ろうとすることだ。そんなふうに思っている。

 

ただそれと同時に「信じ過ぎない」「深入りし過ぎない」というストッパーも働いていて

過ぎないことは人間が生きる上で必要な警戒心でもあるから悪いことではない。

 

思えば、まだ幼い頃の私は、すぐ人を信じていた。

誰かが自分を貶めようなどとする訳がない。と。

それはまだ穢れを知らないというか、純粋というか、馬鹿というかw

深入り加減を知らずに、綺麗な水だと信じて疑わず、覗いて触ってそろそろと…大丈夫そうだと確かめてからではなく飛び込む。

真夏の田舎で橋の上からウェーイ!と川に飛び込む、わんぱくな子供の絵面だw

それが熱湯風呂だったらどうすんだ。底なしの泥沼だったらどうすんだ?準備運動なしで心臓麻痺起こしたらどうすんだ?

そんな考えもない。勢いだけで生きていた。

 

その頃の恋愛も「融合型」とでも言うのか、綾波レイの「あなたと一つになりたい」的な。

肉体的に一つになるというんじゃなく、溶けて交わり同化したい。そんな感じだった気がする。

もっと解り合いたい。知り合いたい。そんな気持ちが強かったのかもしれない。

専門的なことはわからないけど、共依存と言われるものは、こんな感じなのかもね。

 

1人の人と長いタイプで恋愛経験は豊富ではないけれど、この頃に2年程付き合っていた人は、ここにも何度か書いている「見捨てられ不安」を持つ人で

束縛も強く、一緒にいて欲しい。もっと解って欲しい。が過ぎる人で、彼もまた私以上の過度な融合型だったのだ。

 

融合型って言ってるけど、距離感がおかしいんだよねw

人は全て分離なく混じりあえる液体ではなく、固体だから。

それぞれである。という考えが欠落している感じだ。

同化を望むことが過剰な人は、結局なところ相手のことも自分のことも個として認めていないんだな。

私が好きな言葉「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」これの小人の振る舞いだ。

 

そんな自分も大人になり散々痛い目に合い、綺麗で適温な水ばかりではない、人はそれぞれで存在することに価値があり、融合出来ないことを知り、

そうして人を。自分を。認め、過信しない。ということを学習したのである。

それは自分なりの線引きで、今の自分の反射は、そのラインで行われているんだなと。

 

こうやって書くと面倒くさいこと考えてるな。って感じだけど、言語化すればこんな感じというだけで、普段はあまり考えてもなく反射で生きている。

反射とは、自分の経験で書き換えていける心のプログラムみたいなものだな。

度々エラーを起こしながら、原因は何かを探り、より快適に生きるようにプログラミングしていく。

意識したのち無意識になる。難しいことは良くわからないけどもw

 

変な時間に起きたら、こんなことを考えてしまったので、戯言としてここに葬ります。