葬ろう部

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あたり前田のクラッシャー

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ここ最近「当たり前」について考える。

それは昨年の別居・離婚もあり、コロナ騒動もあり。

そんな当たり前について感じたことを書いてみる。

 

当たり前が当たり前じゃない

 

子供が学校に行くことも、旅行やお出かけすることも当たり前に思っていたことが今は出来ていない。

仕事は普通に行っているし買い物もしているけど、少しだけ当たり前だったことが削がれた生活だ。

マスクも売っていないのが当たり前になった。

今まで当たり前に利用していたものの意義や意味を考え、ありがたかったなーと思いを馳せる。

いつ前の当たり前に戻れるかまだわからず不安は続くけれど、

もともとリトルハッピー体質だし、なきゃないでなんとかなるって楽観的な気持ちもある。

今は今の状況で出来ることを当たり前にするだけだ。

 

命あるものは死ぬという当たり前

 

この下書きを書いていて、人の死についても書こうと思ったところ、

志村けんさんの訃報を聞いた。子供の頃から見ていた人だしショックはある。

こんな形でなくなるんなんて・・・ご冥福を祈ります。

 

産まれ出た瞬間から死に向かっているのは当たり前なのに普段はあまり実感がない。

自分に近い人や同級生の訃報を聞いた時に改めて「死」は他人事じゃないと再認識する。

健康に普通に生きるのが日常になっているから。

 

つい最近、同級生の死の連絡を友達から受けた。

友達の友達的な位置でそこまでは親しくないものの一緒に遊んだり呑んだりもしたことある子だった。

 

彼女の死因はコロナではないけれでも、今の医療機関が混乱している状況で、病院をたらい回しになり処置が遅れたことも一因にあると聞いた。

その話がどこまで正しいかなんて確かめようはないけれど、

「病気になれば病院にかかればいい」

という当たり前さえコロナの影響もあり崩れてきているのかもしれないと感じた。

 

 

正直、彼女の死の話を聞くまではそこまでの状況だとは思っていなかった。

コロナと類似の発熱などの症状があった場合、違う病気であっても、可能性がある以上受け入れてもらえないことがあるなどと。

 

こういったことは想像だけでは 補えない。

人の死に意味付けするな。なんて話もあるけれども、彼女の死によってこうした事を実感したのは事実だ。

彼女の死を悼むとともに、この現状を受け止めより深く考えないといけないと思った。

 

家族の当たり前

昨年、別居・離婚をした訳でごく一般の「普通の家庭」という当たり前はなくなった。

離婚している人などごまんといるし別に珍しいことでもなく普通ってなんなの?って感じではあるけれど。

 

もともと仕事であまり家にいない夫だったし、甘え下手なので何かと頼るってことは少なかったものの

それでも、子供のことの相談や、力仕事など「存在」が助かることはあった。

でももうその当たり前はない。ずっといないのが当たり前に変わったから。

 

経済的な面も今までの当り前とは多少変わった部分はある。

収入はそんなに多くはないけれどこれからは一馬力で育てていくのが当たり前に変わったんだ。もちろん養育費は多少なりもらってますが。

 

当たり前に感謝する

当たり前に感謝する。なんていうと宗教じみてしまうけども、

ここ最近、ほんとこのことについて考える。

もし人との接触禁止の世の中になったら?

郵便物に宅配に買い物にあらゆるサービスが利用できなくなる。

今現在、そういった仕事をしている人達のおかげで世の中も

私の生活も回っている当たり前。

それに感謝し、見直していく時なのかもしれない。

 

まとめてきな

当たり前当り前ってよく口にするけれど

当たり前は変わっていくもの。

当たり前に思っていたことがクラッシュしている現状。

当たり前のことにあぐらをかかず、

時には本当に当たり前かを考えることも必要かもしれない。

 

 

今までの当たり前はここに葬ります。

 

※あわただしく書いたので乱筆乱文ですいません。