葬ろう部

いろんなことを書き記し葬っていくブログ

煌めく命

もうすぐ桜が咲く季節。

毎年この時期になると思い出すのが子供が生まれた時に産婦人科の窓から見た満開の桜だ。

まだ予定日まで一か月以上あるというのに、破水からの緊急帝王切開という波乱の出産で、子供をお腹から取り出される時に救急車のサイレンを聞いた。

生まれ出たばかりの血まみれの子供を一瞬ちらっと見せてもらったけれど、

子どもはそのまま救急車に乗せられNICUのある病院へと連れて行かれてしまった。

 

麻酔と出産の疲れからそのまま眠りにつき、しばらくして目が覚めたけど、

果たして私は子供を産んだのか?夢なのか?

現物がそこにいないことに戸惑いながら気怠い体を起こし窓の外を見た。

そこには満開に咲き誇る薄桃色の桜が数本あった。

夕暮れ、幻想的に映える桜はまだ夢の世界にいるようだったけれど、

お腹の傷跡のシクシクとした痛みが現実の世界へと引き戻した。

この中にいたはずの子供が今はもういないのだと。

 

本来なら出産後も母親は授乳に忙しいものだけれど、

私には授乳する子供が側にいなかった。

代りにNICUに持っていくために搾乳し、病院で冷凍してもらい

それを主人に託し届けてもらった。

まだ子どもに吸われてたことない母乳というのものは思うように出なくて

乳房がパンパンに固くなり痛みと熱にうなされた日もあった。

 

子どもに会えたのは産後5日経ってからだ。

産婦人科からNICUのある病院への外出許可が出たのだ。

ようやく我が子に会えるとはやる気持ちでシャワーを浴びていたら

抜糸したばかりのお腹の一部が開き、局所麻酔でザクザク縫われるはめになるという悲劇が起きた。

あまりの痛さに泣いた。麻酔本当に効いてるの???って叫びたくなった。

 

こんな状況ではあったものの外出はとりやめず

また傷口が開くといけないので

ソロリソロリと歩きながらNICUのある病院へ行き、

そこで車イスを借りて、ようやく面会がかなった。

 

 保育器に入った小さい子供。口にはチューブが繋がれている。

そのチューブを止めるテープには看護師さんの手によりナスの絵が書かれていた。

保育器の小窓を開けて子供の手を触ると小さな手でギュっと握ってくる。

それがモロー反射によるものだと解っていても嬉しくて

命がここに息づいていることに涙した。

 

子どもがお腹に宿った時に初めて撮ったエコー写真には、まだ人として形をなさないお腹の物体の真ん中でチカチカと点滅する光があった。

心臓だ。

その時に命とはこんなに煌めいていて力強いものだということを、その小さな生命から教えて貰ったのだ。

 

大人になり仮面をかぶり皮肉をまとううちに体内にあるこの煌めきは誰にも気づかれず、自分自身でも忘れてしまいがちだ。

だから苦しい時にこそ、このことを思い出そう。

私の命はまだチカチカと点滅し、光を失っていないことを。

 

雨が降っても晴れるように、時が経てばまた桜が咲き、子供の誕生日を祝うと共に命について考えを馳せる。

そんな季節が巡って来た。

 

 

今回は割と真面目なポエムw

ちょっと恥ずかしい気持ちはここに葬ります。