葬ろう部

いろんなことを書き記し葬っていくブログ

<寄稿記事>父と涙と男と女

えむるです。以下の記事は3000文字雑草の投稿を読んだ人から

「記事に刺激を受けた。私も葬りたいことがある」と

連絡があり寄稿してもらったものです。

 

ふざけたタイトルは私がつけましたw(Aさんごめんなさい)

内容はいたって真面目な記事です。

世の中いろんな親子関係・人間関係があることを考えさせられます。

 

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父が死んだ。

 

私のたかだか40年の人生の中で、最も尊敬し、最も愛情を注いでくれた人。

父は先天性内臓疾患で、48年目に死んだ。

 

私はまだ高校生で、この世の終わりだと思った。

 

生家はその地域の地主であり、たいした柄もないのに家柄を大事にした。

母は兄を産むために嫁いできたと、離れを建てて兄を取り上げてしまった舅姑を憎しみ怒り、その全てを私にぶつける人だった。

親は子供に何をしても許されるという思考の下、私はびっくりするぐらい殴られて育ってきた。

意味がわからない。

母はいつもイライラしていたし、父は殴られる私を見つけたら母に怒鳴っていた。

母はゴミを見るような目で、あんたは助けてもらえるからいい、と言ってた。

やっぱり意味がわからなかった。

 

家という場所で、私にとって父は唯一の優しさに触れられる場所だった。

 

兄を徹底的に甘やかした祖父母にあたる父の親は、田舎特有の男尊女卑思考から私への興味は一切なく、女は金がかかると顔を見るたび罵った。

会社をしていた生家にとって、男は跡取、女は邪魔。

そんな場所で、家柄に恥じない教養と女らしさと男より劣る程度の学を身につけよ、と母は厳しく言われていた。

その通り、母は私の教育に夢中だった。

 

父は、そんな母を救う光にはなれない人だった。

 

 

父には好きな人がいた。

中学生時代に付き合っていた、Kさんという人。

私はKさんを知っている。

 

16歳の夏、父から紹介された。

父は少年のような笑顔で、

 

「Aちゃん、お父さんの好きな人」

 

と紹介してくれた。

その屈託のなさに高校生の私がちょっと引いた。

Kさんは、戸惑うことなく私の手を握りしめて笑顔で挨拶した。

 

「いつも話、聞いてるの。お父さんとそっくり!」

 

鮮明に覚えている。

とても綺麗な人。

母とは対照的な、柔らかい、心地良い風がKさんの周りには吹いていた。

母が可哀想とか、そういったことは一切思わなかった。

私が16歳の夏といえばもう父は余命を言い渡されていた。

余命幾ばくかと言われた病院で再会したという父の初恋で初めての彼女だったKさん。

 

出来すぎたエピソードに胸焼けした。

 

ただ、父はとにかく嬉しそうだった。

日に日に腹水で膨れ上がる腹も、歩きづらそうな足も、全てを愛でてくれるKさんに夢中で、病院が安らぎになっていた。

父は家庭という現実から完全にぶっ飛んだ世界に生きる人になっていた。

  

 

腹水で死にかけている人間が愛人を作りセ〇クスに勤しむなどと田舎の主婦は考えない。

実親の祖父母でさえも、父亡き後のことばかり考えていた。

仕事柄仕方ないとは思ったけど、やっぱり私は許せなかった。

母は、父が死んだあと、自分の居場所のことばかり話していた気がする。

だから、余計に父が愛しかったし、Kさんは良い人だと思った。

 

私の倫理観なんて、この時点でないに等しかった。

 

 

父が死んだ。

 

 

父が死ぬ間際、葬儀の準備といって病院にいたのは祖父と私とKさんだけだった。

祖父はKさんの存在に対して驚かなかった。

女遊びは男の甲斐性らしい。

なるほど、女遊びをしても許される大義名分がこの家にはあるのか、と謎に安心した。

 

Kさんの涙で、私は泣けなかった。

 

父が息を引き取った時、Kさんは父の手を握りしめ、頰や胸元に引き寄せ叫び泣いていたからだ。

 

「あなたがいなくなったらどうして生きていけばいいの?!ほら、触って!あなたが大好きだったおっぱい。いくらでも触っていいのよ。楽になった?頑張ったね。でも、もうちょっと触れて欲しかった。生きてほしかった。どうしてもっと早く会えなかったの」

 

聞き取れたフレーズ。

何度も死人の手を自分の乳に押し当てる姿は恐怖でもあった。

そしてやたらエロかった。

Kさんは巨乳だった。

父は巨乳が好きだったらしい。

 

どうして私は父が死んで間もなく、父の彼女から父の下事情や性癖を聞いているんだろうか。

どれほどの業を前世でしでかしたら、こんな生き方をする羽目になるのか。

 

 

高校生の私、聞こえるか。

別にグレても曲がっても良かったぞ。

どうせおまえの人生もたいしたことない。

生きることに執着せずに、10代で命を終わらせておいても良かったぐらいの人生しか待ってない。

 

 

せめてもの救いは子供が生めたことかな。

 

 

それからの記憶が曖昧なのは、私自身が闘病生活に入ったからだと思う。

私は父からしっかり先天性内臓疾患のバトンを渡されていた。

父の死後、待ってましたとばかりに症状が現れ、合格した大学にも行けずにひたすら入退院、手術をしていた。

 

19の時、余命宣告された。

 

待って。

早くない?

え、死ぬの?

 

うん、死ぬかもしれないから一か八か手術してみないかって。

 

この決定権も私にはない。

命は我が生家にあり、母が言う大学に合格していた私は母から価値を見出されたらしく、手術をする選択をされた。

 

生きたい気持ちはあったけど、手術はしたくなかった。

予後の良いものではなかった。

他人の手を借りないと生きられないなら、生きたくなかった。

痛いのも嫌だった。

私は闘病に疲れていたんだ。

闘病って字に書いたらたいしたことないけど、実際やってみるとかなりキツイ。

 

禿げるし、パンパンになるし、痛いし。

 

女子高生女子大生って、禿げないしパンパンにならないし痛くないはず。

でも、私の記憶のその時期は、大好きな父と彼女の性事情と私の闘病日記しかない。

たしかに禿げてて、パンパンで、毎日痛くて仕方なかった。

 

なんだ、この人生。

 

 

 

大学病院に奇跡と讃えられ、論文にもなる事例で生き延びた私は、今、母となり3人の息子を育てながら時々入院する日々を送っている。

 

私が新しく築いた家族は随分平凡である。

 

息子たちは文武両道で非常に母親想いだ。

幼少期に入退院を繰り返す姿を見せてしまったせいか、老いた者や弱い者にナチュラルに手を貸す少年に成長した。

 

夫は私の体をやたら労わり、病弱=花束という短絡的思考から、事あるごとにピンク系花束を買ってくる。

見た目が小さいからか勝手にか弱いと思い込み、炊事洗濯掃除を全部してから出社する。

朝4時半起きで複数の犬の散歩と家事と、嫁である私の昼ごはんの下拵えまでしている。

私は息をして、息子たちの母をしていればいいらしい。

 

私は考える。

 

幸せってなんだろうか。

私は幸せなんだろうか。

てか、幸せを感じることが、なんかもう色々としんどい。

 

そんな哲学を用いても答えが出ない悩みを抱える人間が宗教だ、占いだにハマり抜け出せず熱心な信者になってしまう世の中。

私は父が死んでから一度も泣いたことがない。

あの日、Kさんに涙を奪われてから泣けなくなった。

 

父が死んだ日より悲しいことが起きない。

 

こんなこと、誰にも話せるわけもなく、我慢強くて偉いと褒められる私が出来上がってしまった。

 

そろそろ泣いていいかなって。

 

闘病中痛かった。

子供産むとき、会陰切開間に合わず裂けて痛かった。

離婚、辛かった。

息子、いつも優しい。

今の夫、優しい。

前の夫、面白い。

生家、めっちゃ金持ち。

私、もうちょっと生きれそう。

 

 

そんな過去と過去の自分を葬って幸せに浸る余生を過ごしてもいいかな。

 

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Aさんの辛い思い出、ここに葬ります。

 

昔、言えなかったこと今、言えばいい。

昔、泣けなかったこと今、泣けばいい。

そして今、笑えればそれでいい。

 

葬ろう部はそんな場所だと思うからね。