葬ろう部

いろんなことを書き記し葬っていくブログ

大人の階段を登り、情熱を失った。

先日、久しぶりに乗るバスに揺られながらふと思った。

「そういえば最近、本や映画で泣くことがないな」と。

感動はするけれど昔ほどダイレクトに心に刺さり揺さぶられることが少なくなった。

これは心のガードと感情のコントロールが上手になった弊害なのか。

それは大人の階段を上手く登れているということなのか踏み外してしまったのか。

 

若い頃の私はといえば、ぷんぷんと怒り、さめざめと泣き、げらげらと笑う。

東に悩んでいる友達がいれば肩を抱き共に泣き

西に困っている人がいればどげんかせんといかん!と熱く動き回る。

そんな感情が豊かで情熱的な人間であったように思う。

そしてそこから産み出される面倒くさい事態に疲弊し、ある時、感情を失った時期がある。

全てをシャットアウトしてしまったのだ。

そうしないともう私は持たないという防御反応のようなものだろう。

 

ニュースや映画を見て感情移入して泣いてしまうと言う人は感受性が強い。

かつての私がそうであったように。

想像力が豊かであることは悪いことではないけど、時に人の痛みまで感じで背負ってしまい、それにより自らを疲れさせ傷つけ酔いしれる、それはもはや自傷行為のような自慰なのではないか?

 

私も今だって感情移入はするけれど、その加減が上手くなった気はするんだ。

自分が疲れない程度にってね。

 

私の人生の中で1番泣いた映画と言えば

ラスト・オブ・モヒカン

なのだけれど、昔過ぎて話はだいぶ忘れている。

守るべきもののために命をかけて戦う若者の情熱、愛の深さに嗚咽しながら見たことだけは覚えている。

けれど今それを見たところで、そんなふうに泣けるかはわからない。

たまたまその時の自分の心が無防備で、感情移入もしやすくて、刺さって泣いただけなのかもしれない。

 

ちなみに泣けると話題になったタイタニックでは全然泣けなくて、

その時は感情シャットアウト期であった気もするし、もうすでに大人の階段を何段か登っていたようにも思う。

 

子供の頃は現実と仮想の区別がいまいちつかず、

テレビの中のヒーローやサンタクロースを信じ、

鬼が来るぞと言われれは怯え、いつか王子様がと夢を見る。

成長とともにあれは現実ではないと一線を引きドライになっていくのだ。

 

大人になり、現実とそうでないことの区別がつき、

自分に必要か不要かを判断し、心のキャパを守り省エネモードで上手に生きていく。

だからこそ泣けなくなってしまったではないか。

 

私がバイブルとして大好きな漫画

陰陽師」の安倍晴明が言う

ニュートラルに近い状態なのかもしれない。

 

冷静と情熱の間がニュートラルだとしたら

ほんの少しだけ情熱側にシフトしたい。

熱苦しいのは勘弁なので、松岡修造の爪の垢程度の情熱でいいのだけど。

ホワホワとした温かさを感じる程度で。

 

プンプン怒ることも減り

さめざめと泣くこともなくなったけど、

楽しいことにはげらげらと笑う私はいるから

登った階段は案外間違っていないのかもね。

たまには感情爆発してワンワン泣いてみたいけれど。

もうそんなエネルギーはない。

ようは歳をとったってことだ。

 

私が無くした情熱や感情は、我が娘から補給しながら楽しく生きていこう。

 

 

変な時間に起きたので勢いだけの

駄文をここに葬ります。